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米焼酎はどこから来て、一体どこへ行くのか?蒸留酒が日本に上陸した足跡を追いながら、世界へ飛び出すための糸口を探っていく

みなさんは、この絵画を目にしたことがありますか?

ポスト印象派の巨匠 ポール・ゴーギャンの最高傑作として知られる「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

絵の右から左に向かって人間が誕生して老いるまでの時間の流れが描かれ、私たち人類のルーツや未来への変遷が象徴的に表現されています。

今回はそんな不朽の名作に倣って、我々の造る米焼酎とは一体何者であり、これからどこへ向かうのかを改めて考えてみることにしました。

具体的には、蒸留酒が生まれた背景や日本へ上陸するまでの足跡を追って、歴史という大きな文脈から米焼酎を見つめ直そうという試みです。

いまや世界に飛び出すために試行錯誤を繰り返している焼酎ですが、元々は遠い国々を旅して九州の地へと辿り着いたんですよね。

この記事ではそうした「焼酎の来た道」に想いを馳せながら、自分たちの現在地や今後の展望を見つめていきたいと思います。

蒸留技術の誕生と発展

紀元前3000年頃 メソポタミア地方

シュメール人

焼酎やウイスキーはアルコールを蒸発させて造る蒸留酒ですが、その技術の起源は今から5000年以上前のメソポタミア地方にあると言われています。

この時代の遺跡で液体を蒸留した土器が発見されたことから、紀元前3000年頃にはすでに蒸留技術が存在していたと考えられているんです。

ちなみにこの時期は香料用の精油を抽出するのに蒸留を行っていたようで、本格的なスピリッツ(蒸留酒)が誕生するのはもう少し後のこと。

とはいえ、人類が蒸留という新たな製造手法を獲得したという意味では世界の酒造りにとってエポックメイキングな出来事になりました。

9~12世紀 アラビア地方

さあ、そんな蒸留の技術が生まれたメソポタミアの時代から、一気にワープしてきたのは9世紀(800年代)以降のアラビア地方です。

この頃はアランビックと呼ばれる蒸留機が誕生し、鉄などの卑金属から金や銀を抽出する「錬金術」の人気が爆発的に高まった時代でもあります。

アランビック

そして、このアランビックで錬金術の実験を重ねていた傍らに造られたのが「アラック」と呼ばれる蒸留酒です。

このアラックや独自の蒸留技術がイスラム教とセットでヨーロッパやアジアに広まったことで、ウイスキー・ジン・ウォッカ・ブランデーといった世界的なスピリッツが次々と誕生していったんですね。

また、アランビックは江戸期に使われていた蒸留器「蘭引(ランビキ)」、アラックは焼酎の別名「阿刺吉(あらき)酒」の語源になるなど、アラビアで生まれた蒸留酒文化が日本の焼酎にも色濃く残っています。

次章ではそんなイスラムから様々な地域に渡って花開いた蒸留酒が、どのような経路で日本へ伝わってきたのかを見ていきましょう。

蒸留酒、九州に降り立つ

日本に蒸留酒が上陸した正確な時期についての記述は残っていないものの、いくつかの文献で当時の様子を垣間見ることが出来ます。

例えば「朝鮮王朝実録 (李朝実録)」には、1477年に琉球に漂着した済州島民が度数の高い南蛮酒(蒸留酒)を飲んだという記録も残っており、このお酒が現在の泡盛ではないかと言われているんです。

このように15世紀には大陸から琉球に伝来していたとされる蒸留酒ですが、焼酎の本場・九州には一体どのようなルートで上陸したのでしょうか。

現在有力と考えられている、2つの説を紹介していきましょう。

①南方ルート(シャム→琉球→薩摩)

1つ目はシャム国(現タイ)の「ラオ・ロン」という蒸留酒が親交のあった琉球に伝わり、その後に薩摩に渡ったという南方ルート説です。

泡盛が現在でもタイ米と黒麹菌で造られていることから、タイから琉球への伝来については信憑性が高いとされる一方、黒麹が本土に入ってきたのが明治以降である点に疑問を唱える人も少なくありません。

②北方ルート(中国→朝鮮→壱岐)

アラビアの蒸留技術が中国に伝わって「白酒(バイチュウ)」が生まれ、それから朝鮮の高麗酒が長崎の壱岐に伝来したとされる北方ルートです。

今でも壱岐は焼酎づくりが盛んで米や麦も豊富に穫れることから、壱岐を中継地点に北九州へと伝わり九州を南下したという説ですが、この説を裏付ける史料が一切残っておらずこちらも決定的とはいえない状況です。

このように上陸した経路は未だ不明な部分も多い中、いつ頃から九州で焼酎が楽しまれるようになったのかは文献に残っています。

まず、フランシスコ・ザビエルの要請で日本を調査していたポルトガル商人のジョルジュ・アルバレスが、自著「日本の諸事に関する報告」で1546年に島津藩の山川港に滞在した時の光景をこう書き記しているんです。

この記述を見る限り、薩摩でも16世紀の中頃には米を原料にした焼酎が庶民の間でも楽しまれていたことが伝わってきます。

そして、日本に残っている「焼酎」という文字の最古の記録が、鹿児島県大口市(現:伊佐市)の郡山八幡神社で発見された木札の落書きです。

この落書きには神社の施主が焼酎を奢ってくれなかった事に対する宮大工の不平が書き込まれており、改めて酒の恨みは怖いと知れるのと同時に、この時代には日常的に焼酎が振る舞い酒に使われていたことがわかります。

郡山八幡神社(伊佐市)

また、この落書きが書かれたとされる1559年(永禄2年)は…

・まだ日本にサツマイモが渡来していなかった
・人吉球磨を治めた相良氏の領地は大口市周辺にまで及んでいた

上記の状況から、この落書きは日本最古の焼酎は米焼酎だったのではないかという説を裏付ける貴重な史料となっているんです。

さて、ここまでは蒸留酒や焼酎のルーツを振り返りながら、九州に焼酎が上陸して庶民の間で楽しまれるまでの歴史を見てきました。

いよいよ次章は焼酎伝来から500年以上の時を経た現代にフォーカスして、本格焼酎の現状や課題を追いかけていきます。

米焼酎は世界へ向かう

2015年ミラノ万博での試飲会

長い旅路の末に日本に上陸して独自の進化を遂げた焼酎ですが、いまその歩んできた道をトレースするように世界へ飛び出そうとしています。

こちらは国税局が発表している日本産酒類の輸出動向です。

このグラフ見ると、全体的に日本産酒類の輸出額は右肩上がりで、中でもウイスキーと清酒の伸びが好調であることがわかりますね。

一方で焼酎の輸出金額は毎年ほぼ横ばいとなっており、シェアで見ても全体の1.2%程度と海外へのチャレンジには大きな伸びしろが残されています。

こうした中、農林水産省が令和2年にスタートした「農林水産物・食品の輸出拡大実行戦略」の重点品目(29点)の一つに本格焼酎・泡盛が選出され、日本の蒸留酒を世界に発信しようとする試みも進んでいるんです。

そして、この農林水産省が推進する戦略のコンセプトこそ「プロダクトアウトから、マーケットインへの転換」というもの。

日本で受け入れられている商材をそのまま輸出するのではなく、ターゲット市場を明確に設定した上で、その国の文化や風習によって商品開発や流通を柔軟に変えていくことが求められています。

ちなみに当社では、こうしたグランドデザインが制定される前から海外のマーケットに合わせたアイテムや流通を独自に進化させてきました。

例えば、2019年には蒸留酒をBARで飲む機会が多い欧米市場に向けて、カクテルとの相性を追求した「The SG Shochu」シリーズを世界的バーテンダー後閑 信吾さんと本格焼酎メーカー3社共同で開発しています。

また商品だけでなく、海外向けのカクテルメニューなども積極的に開発し、現地の酒文化にフィットするようなコンテンツの強化にも努めてきました。

こうしたハードとソフトの両面から現地の酒文化に適合する動きと同時に、海外から来日するインバウンド層に対して日本の酒文化の良さをアピールする活動も最近強化し始めているポイントです。

こちらは熊本空港の国際線で実施した試飲イベントの写真ですが、リキュール人気が高い中国やTSMCの進出で訪日客の増加が見込まれる台湾のお客様に対して熊本の酒文化を社員自らアピールしました。

加えて、有名な蒸留酒のコンペティションにも積極的に出品することで、世界的な米焼酎のプレゼンスを高める活動も地道に継続しているんです。

ここまで見ていただくと、500年以上前に海外から伝来した蒸留酒をアレンジして造られた焼酎が、外の世界へ飛び出すために自らを変化させようと試行錯誤する姿が伝わってきたのではないでしょうか。

最後は焼酎が辿ってきた過去と世界に踏み出した現在を踏まえて、今後私たちが手掛ける酒造りの方向性をお話したいと思います。

旅の原点に立ち戻って

これまで120年に渡って米焼酎を造り続けてきた当社ですが、実は既に未来に向けて新しいチャレンジをスタートしています。

具体的には米焼酎だけでなく、ジンやウイスキーといった世界でもメジャーな蒸留酒造りに2021年から取り組み始めているんです。

アラビアの蒸留技術が様々な国を経由して日本に伝わり、500年の時間を経て「焼酎」というジャンルが完成したことはこれまで説明してきました。

だからこそ、世界を視野に入れた時にこれまで通り日本の市場に特化した米焼酎だけで勝負するのか、それともさらなる成長を目指して新たなジャンルに挑戦するのかという自問自答を繰り返したのです。

その結果、私たちの原点である蒸留酒への理解を深めたい、そして新たな酒造りをここ熊本からスタートしたいというの想いから、リスクを取ってでも「世界に通用する蒸留酒メーカー」を目指す道を選んだのでした。

我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

今回の記事は一枚の絵画から始まりましたが、蒸留酒のルーツや米焼酎の現在地を振り返ることで、今後自分たちが挑むべき地平がはっきりと見えてきたような気がします。

米焼酎の魅力を世界に発信し、新しいお酒を生み出す中で多くの困難もあると思いますが、長い旅路の末に生まれた熊本の蒸留酒が世界中を震撼させる日を夢見てこれからも歩み続けるつもりです。

そんな造り手の夢が詰まった一雫を皆様にもいつか楽しんで頂きたいので、これからも当社の挑戦をぜひ見守ってくださいね!