日本で1番白岳しろを運んできた男が、35年以上見届けてきた白岳の歴史と令和2年7月豪雨からの復興についてこれまた熱く語ってくれた
「あの人の白岳愛は、ちょっと違うけんね」
当社社員が口を揃えてそう評する名物男がいる。男の名は元島 誠(もとしま まこと)。半世紀以上白岳のロジスティクスパートナーを務める日本通運人吉支店に所属し、入社以来白岳一筋を貫いてきた物流のプロだ。
今回のインタビューでは、元島さんが白岳と共に歩んできた半生と自らも被災しながら会社や地域の復興に尽力した令和2年7月豪雨について聞いた。
白岳から始まった社会人生活とバラ積みの日々
-早速ですが、元島さんのキャリアについて教えてください
元島/僕が日通に入社したのは1986年。初配属は免田町(現・あさぎり町)の支店で、入社していきなり白岳さんの担当になったんですよ。初めて会社に伺った日、白岳の現会長に「今日からお世話になる元島です!よろしくお願い致します!」って大声で挨拶したのは今でも良く覚えてるなあ。
…と、ここまでは良かったんだけどね。
なんと挨拶したその日に、トラックの荷物に紐を引っ掛けたまま発進して荷を全部ひっくり返しちゃったの。もちろん商品は全部大破。「これはやってしまったぞ…」って1人青くなってた所に、会長が「まあ、気にすんな」って優しく声をかけてくれてね。あの時は本当に救われましたよ。
-当時は今よりも配送が大変だったとよく聞くのですが?
元島/今でこそお酒専用のP箱とパレットがあるからフォークリフトでどんどん荷物を積み込めるけど、当時は全部手積みだったからね。荷を解いて1個1個手で積むからバラ積み・バラ下ろしっていうんだけど、まあこれがキツイ。一升瓶が10本詰まった木箱を、1人で上まで延々と積み上げていくあのキツさはやったことがある人じゃないとちょっとわかんないと思うよ。
昔、白岳の高橋社長と忘年会でお会いした時に「元島くん、君はバラ積みを知っとるか?」って聞かれたことがあって、「はい!自分やってました!」って勢いよく答えた事があったね。高橋社長も若い頃バラ積みを経験された方だからね、そういう風に聞いていただいて嬉しかったですよ。
僕が入社したあたりから、米焼酎の消費量がどんどん伸び始めてきた。正月やお盆には5~6台のトラックが当たり前のように列をなして出荷を待ってたし、自分も多い時では1日50件近く問屋さんを回ってたよ。確かにキツくて大変だったけど、若かったしとても充実した日々だったよね。
市場の急成長、物流の進化、そして白岳への愛
-米焼酎が伸び始めると、どんな変化が起こったんですか?
元島/まずクセのない球磨焼酎が市場に増えて、一般の人にとっても飲みやすくなったのがこの時期だね。特に、白岳としろは熊本市内でもかなり人気が出て、次々と注文が入り始めた。熊本市と人吉って90kmくらい距離があるんだけど、ピーク時は自分もトラックで1日4往復くらいしてたからね。
人気が出てくると納品数が増えるから、卸屋さんが荷を乗せるパレットを自然と貸してくれるようになったの。そこで徐々にバラ積みからパレットとフォークリフトのスタイルへと変化して、かなり輸送が効率化されたね。
そうすると、配達先で「しろは飲みやすいねえ」とか「白岳は美味いねえ」なんていうお客様の声を直に受け取るようになるわけ。この頃は白岳の配達が中心だったから、白岳が褒められるとまるで自分が褒められたみたいな気持ちでね。プライド持って配達してたし、そりゃあ嬉しかったよ。
-元島さんといえば、その熱狂的な「白岳愛」で評判ですが
元島/うん。それは間違いない。心の底から愛してるし、自分たちが仕事出来るのも白岳さんあってだと思ってる。自分は白岳さんの倉庫に常駐して出荷担当をしてたこともあるし、運ぶ立場で製造現場を見てきたからね。
製造社員の人たちが日々どれだけ一生懸命お酒を造っているかも理解しているから、ずうずうしいかもしれないけど自分も白岳の一員という気持ちで仕事してた。たまに白岳の朝礼にも参加したりしてね(笑)。
あ、白岳愛といえば、一つ忘れられないエピソードがあってさ。
運輸関係の集まりで、泊りがけで熱海に行ったことがあるんだけど、その旅館の棚になんと「白岳しろ」の瓶が置いてあったのよ。嬉しくなっちゃって、その夜の宴会は旅館のご主人に頼んで白岳しろでみんなで酒盛り。
楽しかったねえ。
ただ1つ気になったのがロックグラス。他メーカーのグラスで白岳しろを飲んだのがどうしても気になってね。ベロベロな状態でご主人に「熊本に帰ったら、白岳のロックグラス一式送らせますから!」って宣言したの。
ご主人も酔っ払いの冗談だと思って流してたんだけど、熊本に帰って白岳の部長にこういう理由でロックグラスを送って欲しいって頼んだらなんと即決でOK。すぐに送って、ご主人から感謝の電話も貰ったけど、白岳愛を持つものとしては当然の事をしたと思ってる。
白岳って、それぐらい自分にとって当たり前の存在なんですよ。
令和2年7月豪雨のあの日に何が起こったのか
-2020年に発生した令和2年7月豪雨では日通倉庫に保管いただいていた当社商品3万本も冠水しました。あの日について教えていただけますか。
元島/豪雨災害が起こったのが7月3日だけど、あの日の1週間前から雨は降り続いてたんだよね。そして線状降水帯が発生して、あの災害が起こった。当日あまりにも降るもんだから、朝の4時に家の前の球磨川を見に行ったら堤防からあと40cmの所まで水が来てて、もうこれはヤバイと思ったね。
だから先に近所の高齢の人たちを避難所に移動させて、うちにあったカヤックで取り残されてる人たちを助けにいったの。自分の家も浸かってたけど、幸い住居部分が2階だったからね。なによりも一人暮らししてる近所のお爺ちゃんお婆ちゃんたちが心配でたまらなかった。
救助が一段落してから、すぐ会社に向かったら荷物を保管する3段枠の一番下が完全に浸水して商品が駄目になってて。2段目にまでは水は届いてなかったけど湿気でダメージを受けてたんですぐに商品を各社に返却した。毅然と取り組んでたつもりだけど、あの時だけはやっぱり少し落ち込んだかな。
-あの日止まってしまった物流機能をどのように復旧したんですか?
元島/トラックも全て水没して動かなくなったから、まずは日通の熊本支店から駆けつけてくれた応援部隊の指揮を執ることに専念した。そして白岳さんや他の会社さんの荷物を返しながら、少しずつ倉庫の掃除から始めたの。朝会社で作業して、帰って近所の家の手伝いをして、最後に自宅の掃除だね。
でも、1つだけ嬉しいことがあってね。日通の人吉支店全体が復興作業に向けて本当に一致団結したの。僕も燃えるタイプだからわかるのよ、「ああ、こいつら今燃えてるぞ」ってさ。普通あんなこと起こったら絶望で元気無くなるじゃない。全然違う。みんな使命感で目がギラついてんだもん。
入社して36年になるけど、あの時ほど嬉しかったことはないよ。こいつらとなら絶対にこの災害を乗り越えられると思ったし、今でも本当に誇れる仲間たちだと思ってる。いつもは僕1人で勝手に熱くなっちゃてるんだけどね。あの時だけはみんなが燃え上がる様子がひしひしと伝わってきた。
みんなのおかげで予想以上にスムーズな復旧を迎えることが出来たし、どんなに辛い状況でも「なんとかなる」って希望を持つことが出来た。
ありがたかったよ。仲間には本当に感謝してる。
これからも、白岳とともに
-元島さん、インタビューも最後です。これまで仕事で大事にしてきたことや今後へのメッセージを下さい。
元島/自分はやっぱりこの仕事が好きだね。元々はトラックに乗ることが大好きだったんだけど、荷主さん、配送先のお客様、そして同僚たち。この仕事を通じて関わるすべての人たちとのやりとりがやっぱり楽しいんですよ。だから、そういう人たちと真剣に交わるからこそ生まれる「心」の部分を1番大事にこれからもバリバリ働いていきますよ。
メッセージかあ。難しいなあ。まあ、僕は入社してから今までずっと白岳さんと一緒に歩いてきたからね。メッセージは「白岳と共に歩く」でいいんじゃないかな。
もう自分と白岳さんのこの関係は生涯変わることはないと思う。これからも変わらず一緒に歩かせてくださいよ。
-本日はありがとうございました!
元島/こちらこそありがとう。そして、また明日からもバンバン運んでいくのでよろしくお願いしますね。