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【令和2年7月豪雨 特別企画】松岡 隼人 人吉市長インタビュー/人吉を襲った豪雨災害から2年。復興と未来に向けた街づくりの両輪を回し続ける松岡市長がリーダーとして大事にする信念とは

今月で発生から丸2年を迎えた、令和2年7月豪雨

あの日、線状降水帯がもたらした大雨は人吉球磨の象徴である球磨川氾濫させ、一夜にして人吉の街をのみこんでいきました。

写真提供:人吉市

商品3万本が冠水するなど当社も大きな被害を受けた一方で、清流・球磨川の恵みのもと球磨焼酎を造ってきた蔵元として、この水害を風化させないために毎年様々な取り組みに挑戦してきました。

2020年/球磨焼酎支援プロジェクトサイト
球磨焼酎復興に向けた全国からの応援の声や義援金を募った特設サイト

2021年/人吉球磨アンバサダーズインタビュー
人吉球磨本来の素晴らしさをインタビューを通じて表現したコンテンツ

そして、豪雨災害から2年を迎えた今年。

目を背けたくなる様な凄惨な記憶ではなく、人吉という土地にとって令和2年7月豪雨がどんな出来事だったのかを改めて発信したい。

今回そんな思いからお話を伺ったのが、松岡 隼人 人吉市長。人吉で生まれ育ち、豪雨災害時の陣頭指揮を執った若きリーダーです。

PROFILE 松岡 隼人(まつおか はやと)
1977年 人吉市生まれ。人吉市長(2期),元人吉市議会議員(2期)最近の楽しみは休日に子どもたちと行く釣りやキャンプ

豪雨災害から2年が経つこの機に、人吉にとって令和2年7月豪雨がどんな意味を持つのか。松岡市長と共に考えていきます。

大好きな人吉と理想の街づくり

-松岡市長、本日はよろしくお願い致します。まずは、市長の幼少時代について聞かせてください

市長/あれ、今日は球磨焼酎のお話じゃないんですか(笑)。

僕は生まれも育ちも人吉で、小さい頃は本当にその辺で遊び回ってました。ヤンチャとかでもなく、どこにでもいる普通の少年でしたね。その頃を振り返ると今でも楽しかったことしか思い出せないんですよ。

大学は熊本市でしたけど、小さい頃のいい思い出が詰まった人吉が忘れられなくて、卒業後すぐに帰ってきました。いつか自分が子どもを授かった時、人吉のような土の匂いがする土地で育てたいと思ったんですね。

-松岡市長が大事にしてきた事を教えていただけますか

市長/人吉を「選ばれる地域」にする事です。

全国で人口減少若い世代の流出が課題になっていますが、人口はその性質上突然増えることはありません。だからこそ、その地域に住みたいと思ってもらえるような街を作ることが一番大事ですよね。

具体的には、若者が夢を実現できる街を作りたいです。やはり、若い人も自分のやりたいことが出来る地域に住みたいと思うはずですから。

-選ばれる地域になるためには、何が必要なのでしょうか

市長/まずは地域に住む人達が、自分たちの地域を好きになること

住んでいると、その土地の魅力って中々感じられないんですよ。だから自分たちの土地にはアピールするものが無いって自虐的になったりもします。

でも、人吉は青井阿蘇神社国宝に認定された頃から少しその流れが変わった気がしますね。「人吉にはもっと良いものがあるんじゃないか」という住民の気運が高まっていくのを感じています。

地域の魅力は、その土地の歴史の積み重ねから生まれます。その魅力を伝えるためには、まず住んでいる人たちがその歴史や価値を総体的に理解して、自分たちの土地に誇りを持って発信することが大事です。

市長/もう1つは、住んでいる人たちが変わっていくことですね。

僕は地方都市ほど、不便さを解消するという意味でもITをはじめとした最新技術を導入するべきだと思っています。ただ、いくら新しい技術を取り入れても、その技術を使う側の人間も変わらなければ意味がないんです。

以前、ある高校生の女の子と話している時に「お年寄りから昔の遊びを習うのも良いけど、私たちがスマホの使い方をお年寄りに教えた方がもっと意味があるんじゃないですか」と言われて、ハッとした事があります。

私も含めて人間は歳をとるほど変化への抵抗も大きくなりますが、住んでいる人が変わることで地域もいい方向に変わっていくと信じているので、街だけでなく人の変化や成長も支援していきたいですね。

令和2年7月豪雨発生

写真提供:人吉市

-豪雨が発生した時について教えてください

市長/気象庁から土砂災害警戒情報が出ると我々は役所に詰める決まりがあるので、災害発生前日の21時過ぎには当時の本庁舎であるカルチャーパレスにいました。

7月4日の早朝、いよいよ氾濫寸前まで球磨川の水位が上がったので防災行政無線放送をつかって市内全域に避難を呼びかけたんです。10時半くらいには晴れ間も見えて水も引き始めましたが、街の姿は一変していましたね。

そこから、10日間くらいは本庁舎に詰めっぱなしでした。もっとも、自宅も被災していたので帰る場所は無かったのですが。

写真提供:人吉市

-災害発生後、何から手を付けられたんですか

市長/まずは、安否確認人命救助です。
警察、消防、自衛隊と連携しながら行方不明者を洗い出し、リストがゼロになるまで捜索しました。その次が避難所運営災害廃棄物の処理でしたね。

初めはやらなければいけないことに追われて自分たちが何をしているかもわからない状態でした。職員も不眠不休で対応していましたが、それを超える量の要望がひっきりなしに入ってくるんです。

普段とても静かで温厚な方が、職員を怒鳴りつけている様子などを見るのは本当に辛かったですね。誰が悪いわけではないのに、誰もが疲弊していく「ああ、これが災害というものなのか」と痛感しましたよ。

写真提供:人吉市

-陣頭指揮を執る中で、一番意識していたことはなんですか

市長/リーダーとして、あらゆる事にまず「GOサイン」を出すことです。結果、不都合が起こったら自分が責任を取ると覚悟を決めていました

通常は議会の承認を受けて実行という流れなのですが、災害時はこのスピード感では遅すぎます。この時はまず現場の判断で必要だと思うことをどんどん実行してもらいました。

もちろん、この時のやり方には賛否両論あると思います。しかし、都度変化する災害の状況を一番知っているのは現場の担当者たちです。その現場が良いと思うことは流れを止めずに実行して欲しかった。

「完璧なんて無い」という前提が、災害時は1番大事だと思いますね。

人吉の未来を見据えて

-最後に市長が目指す復興と人吉の街づくりについて教えてください

市長/まず、復興に関しては「命の安全」が大前提です。

災害後、本当にこの場所で市政を続けて良いのかと思い悩み、一時は高台に移転したほうが良いのではないかと真剣に考えたことさえありました。

今は熊本県が掲げる「緑の流域治水」をベースに、流水型ダムの活用など住民の生命に配慮した復興計画を進めています。先の災害で学んだ治水の大切さを踏まえて、1日も早い復興を果たしていくつもりです。

市長/街づくりに感しては「未来型復興」がキーワードですね。

豪雨災害の前から、人吉市には道の狭さシャッター通りなど様々な課題がありました。人吉に昔からある資源を活かして、復興と同時にこうした課題もひっくるめて解決しようというのが未来型復興の考え方です。

災害自体は人吉にとって非常に痛ましい出来事でしたが、新しい街を作るという意味では悲観的な面ばかりではありません。

今の人吉は1600年代相良藩が作った区画から良くも悪くも変わっていないので、人吉の歴史は大事にしながらも現代に合った区画を検討していくことで、そこに住む住民そして企業誘致移住者にとって魅力的な街を作っていきます。

市長/いま個人的に一番嬉しいのが、コロナが少しずつ収まってきて市民の方々と直接お話できる機会が増えたことですね。

いろいろ話してきましたが、本当にいい街を作るには住民の皆さんの「こんな街にしたい」という意志が一番大事なんです。そこに行政が加わって二人三脚で魅力あふれる地域を作っていく。これが僕の理想です。

街づくりには時間がかかるものなので住民の方々との対話を一番大切にしながら、人吉をどんな人にとっても魅力的な「選ばれる地域」にしていきたいです。

-松岡市長、本日は本当にありがとうございました!

市長/こちらこそ、ありがとうございました。
本当に球磨焼酎の話をしなくてよかったんですか(笑)。

僕も球磨焼酎には目がないので、これからも飲み続けますよ。

今後も共に人吉を盛り上げていきましょう!

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