熊本出身の劇団主宰・知江崎 ハルカが演劇ユニット「翠座」で表現する飽くなき人間への好奇心、そして白岳しろへの大いなる愛情
東京の片隅で不定期に開かれている謎の夜会「スナックはるか」。
熊本出身のママがこよなく愛する白岳しろを気前よく振る舞い、店内は夜通し楽しいお芝居と歌唱に包まれるオトナの社交場です。
この舞台を全国に発信しているのが、東京で活動する演劇ユニット「翠座(あきらざ)」のみなさん。
コロナ禍に公演が出来ない中で始めた配信は回を重ねるごとに好評を呼び、今では劇団を代表するコンテンツの一つとなっています。
そしてこのスナックでのイベント公演を切り盛りするママこそ、翠座を主宰する知江崎ハルカさんです。
20代の頃から演じることを生業に全国の舞台を渡り歩き、2014年に「翠座」を立ち上げた知江崎さん。
『キッカケを作る演劇づくり』というコンセプトを掲げ、誰かの人生に影響を与えられるような熱い表現をメンバーと共に追い求めてきました。
幼少期の演劇との出会い、劇団を立ち上げるまでの長い道のり、そして自身を突然襲った病との闘い。
今回は役者・知江崎 ハルカの半生に迫りながら、舞台を手掛ける醍醐味や人生における演じることの意味について伺っていきます。
「ベルばら」と演劇への目覚め
--スナックはるかでは白岳しろを推していただきありがとうございます!
知江崎/美味しいですよね、しろ。昔から好きなんです。
10年くらい前だったかな。東京のコンビニでたまたま見つけて「わぁ、懐かしい!」ってなって。スナックはるかでも、自分のルーツである熊本を表現するアイテムとしてありがたく使わせていただいてます。
最近はスナックで熊本弁や郷土料理を紹介しながらも、白岳しろがママのお気に入りっていう部分を一番アピールしてたり(笑)。
--演劇自体はいつごろから始められたんですか?
知江崎/演じることに興味を持ったのは、小学校低学年くらいかな。
テレビで偶然観た宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」がもう衝撃で。世の中にはこんなに綺麗な世界があるんだって感動して、それから演劇への興味が少しずつ強くなっていくんです。
子供会のイベントや学芸会で舞台に立つたびに惹かれていったんですよ、どこまでも正解の無い演技の世界に。つかこうへい劇団とかも全盛の時代で、高校でも迷わず演劇部に入部しました。
--演劇部でプロデューサーとしての素地が身についたんですか?
知江崎/いやいや、全然。当時書いた台本も面白くなかったですし(笑)。
ただ「こんな演技がしたい」というのはこの時に固まった気がします。私、新渡戸稲造みたいになりたかったんです。世界の架け橋的な。思えば、その頃から誰かに影響を与えたいという想いが強かったのかもしれません。
そんな演劇一色の青春時代を過ごしたので、高校卒業後もそのまま劇団に入ろうとして。ただ、そこはさすがに両親からのNGが出たので、医療系の専門学校に通いながら劇団に通う毎日を過ごしました。
知江崎/その後就職もしましたけど、その頃から日に日に強くなったのが「自分は独り立ち出来ていない」という焦りや危機感でした。
小さい頃から両親に頼りきりで、熊本以外の世界を見たこともない。このままでいいのかと悩み続けた結果、当時勤めていた職場を退職しました。環境を変えない限り、自分は変われないと思っていたんですね。
熊本を出て外の世界で働き始めたのが、ちょうど私が20歳の頃でした。
人間を演じることへの信念
--テーマパークでは、どういったお仕事をされていたんですか?
知江崎/全国の時代村や江戸村のスタッフとして、舞台で演劇をしたり道中でお客様を楽しませたりする仕事です。
テーマパークって面白くって。同じ衣装で同じ演技をしても、足を止めていただけるかは演者の技量で決まります。人目を引く声の出し方からお客様への魅せ方。この下積み時期、徹底的に仕込まれました。
知江崎/あと、色々な役を演じられる環境もありがたかったんです。
テーマパークでは、花魁道中のような艶のある芝居から一心太助みたいな人情喜劇まで幅広く演じ分けられないといけなくて。その振り幅が大きいほど、自分の演技の幅も広くなっていくような気がしたんですよ。
それでもやっぱり、私は喜劇を演じるのが好きでしたね。
笑いこそが人間のエネルギーを開放してくれると今でも信じてますし、私が作る作品にコメディが多いのもそうした演者としての原体験が大きいのかもしれません。
知江崎/そんな下積みを重ねて東京での仕事も少しずつ増えていた中で、2014年に旗揚げしたのが翠座です。
観劇にハマる人を一人でも増やしたいという想いで、当たり前のようにお芝居がある日常を実現したくて立ち上げました。憧れは大衆演劇のようなテンション。お芝居と生活が一体化した粋な集団を作ってみたいなと。
その上で、脚本・演出・役者全てを出来るのが主宰の面白みでもあるので、自分が表現したかったことには全て取り組むようにしています。まあ裏を返すと、そこが主宰の大変さでもある訳ですけど(笑)。
知江崎/基本的に私、人間が好きで。昔からとても興味があるんです。
好きな人も嫌いな人もつぶさに観察してその人間像を追い求めることで、自分自身の視野が広がってお客様にも伝わっていく。そうして人間の可能性を開放していく事が、私にとっての演劇の醍醐味なんですよ。
その姿勢は自分だけじゃなくて、劇団のメンバーに対しても同じです。
知江崎/その人が短所だと思っていた部分に光を当てた途端、急にその短所が輝き出すのもお芝居の面白さの一つなんです。
その秘めた個性がお客様に伝わって、私たちの舞台を見た人たちにとっての何らかのキッカケになってくれたら、この劇団を立ち上げた意味はあるのかなって。
その変化は「久しぶりに親に電話してみようかな」とか些細なことでもいいんですよ。誰かにとっての気づきや行動の起点になれたら、それはこの劇団にとっての大切な表現のかたちですから。
闘病中に出会った、母の面影
--2018年に、ご自身のブログで癌になったことを公表されました
知江崎/初めは「最近調子悪いな…」くらいの感覚でした。
それまで忙しさにかまけて定期検診にも行けてなかったんですけど、体の異変が無視できないくらい大きくなっていたので、病院で検査を受けてみたら子宮頸がんで。
知江崎/これまで通り生きていけるのか、お芝居は続けていけるのか。考えれば考えるほど、悩んだり泣いてる時間も増えていって。
この時期は辛かったですね、劇団員にも内緒にして闘病していたので。
そして病気の進行や転移の危険性を踏まえて、いよいよ切除するかを決断しなければいけないタイミングがやってきたんですけど、そんな時になぜか浮かんでくるのが亡き母の面影だったんですよ。
知江崎/私が若い時に突然倒れて亡くなった、母との記憶。
「あの時もっとこうしていればよかった」とか「お母さんはどんな事を考えていたんだろう」って。私が生きることを考える時に常に頭をよぎったのが母との楽しい想い出であったり、ちょっぴりの後悔だったんですよね。
そんな中で自分が生き抜いて出来ることをもう一度問い直したら、やっぱり演劇しかありませんでした。生きることについて前向きに考えられたのは、母を通じて自分と向き合えたからなんだと思います。
知江崎/病気を乗り越える中では、確かに辛いことも多かったです。
女性としての生き方について考えることもありましたし、大切なものと離れなければいけない瞬間も沢山ありましたから。それでも今の自分には、舞台で演じられるこの体が残ってます。
いま、「無いものは無い」という一種の諦めを大切に生きてるんです。
今日出来ることを最大限頑張ろうって生きられているのもこの言葉のおかげなので、この命を輝かせるためにもこれまでと変わらず全力で演じ続けていくつもりです。
自分の「好き」に従っていく
--今後、挑戦してみたいことや抱負があれば教えてください
知江崎/劇場にこだわらず、色々な場所で芝居してみたいです。その辺の道端とか公園とか、空き家なんかを使っても面白いかも。
劇場でやるからお芝居になるというより、お芝居をするところ全てが劇場になるというか。そういう演劇の原点みたいなことを、いつか翠座でも取り組んでみたいですね。
それこそ自由で楽しそうだし、考えただけでワクワクしませんか。
知江崎/今回、大好きなしろのボトルには「自分の好きを大事に」って書きました。
病気を経験してからはもちろん、これまでの自分を振り返ってもひたすら「好き」だけを追い求めていた人生だったなと(笑)。まだまだ実現したいことは山のようにあるので、心の向くままに演じていけたらいいなって。
知江崎/あ、そういえば。実は次回公演する「おもいでゴハン」という舞台の私の役名が偶然にも御社の商品と同じ“カオル”なんです!
やっぱり、白岳しろと私には何かしらの縁があるのかもしれません。
これからも白岳しろを推していきますし、新作のお芝居や配信にも精力的に取り組んでいきますので、ぜひ一度公演を見に来てください。
その時は翠座一同、最高の舞台を用意してお待ちしております。