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なぜ熊本では「米焼酎」が飲まれるようになったのか?その秘密を人吉球磨の地理と歴史の両面から紐解いてみる

いまさらですが、熊本で焼酎といえばもちろん米焼酎です。

下のグラフは国税庁の資料をもとに作ったもので、九州各県の焼酎売上実績原料別にまとめました。※注意※消費量ではありません

出典:国税局「酒類製造業及び酒類卸売業の概況(令和3年調査分)」

このデータを見ると、全国的に焼酎の生産量が多い九州の中でも、熊本がいかに突出して米焼酎を造っているのかよくわかりますね。

さて…ここからが今日の本題です。

同じ九州という土地で焼酎を造っているにもかかわらず、なぜ熊本だけこんなにも米焼酎の割合が大きいのでしょうか。

熊本が誇る米焼酎のほとんどは、県南の人吉球磨地方で500年以上受け継がれてきた球磨焼酎。その秘密を解き明かす鍵も、人吉球磨という土地のユニークさにあります。

今回は全国的にも珍しい米焼酎が熊本で造られるようになったルーツを、人吉球磨の地理と歴史を照らしながら眺めていきましょう。

地理から読み解く米焼酎

まずは、人吉球磨で米焼酎が造られるようになった2つの地理的要因を見ていきます。

人吉球磨と米焼酎を結びつけた地理的要因
その①  日本三大急流の一つ・球磨川
その②  深く険しい山々と人吉盆地

球磨川がもたらした、水の恵み

人吉球磨を流れる「球磨川」

球磨川といえば人吉球磨の中心を流れる街のシンボルですが、昔から安定して水を供給してきた巨大な生活インフラでもあります。

そして特筆すべきは、その水質

球磨川水系最大の支流・川辺川が国土交通省の「水質が最も良好な河川」に16年連続で選ばれるなど、その水の美しさは日本でもトップクラスに位置づけられているんです。

米焼酎は、米と水だけを原料に造られます。

全国屈指の水質を誇る球磨川の水で育てた美味しいお米を、その水で仕込んでいく。素晴らしい原料を惜しみなくを使える環境にあったからこそ、球磨焼酎の素朴で力強い味わいが生まれたのかもしれません。

また水質だけでなく、田畑に水を引き込む良質な水源が支流に多かったことも、米の安定生産に一役買ったといわれています。

現代に残る球磨川くだりの「HASSENBA」

さらに、忘れてはいけないのが球磨川の物流機能

江戸時代に人吉藩の林正盛が巨岩を取り除いて舟での運行を可能にしてからは、球磨川を通じて八代港まで米焼酎やその他産物を運ぶようになり、外部への重要な幹線として参勤交代にも使われるようになりました。

焼酎を造って、その価値を運ぶ。

この製販2つの機能で、球磨川は米焼酎を支えてきたのです。

切り立った山々と人吉盆地

人吉球磨地域は周囲を険しい山々に囲まれた盆地ですが、この地形も米焼酎造りにはプラスに働きました。

まず、盆地は昼夜の寒暖差が大きい稲作に適した地形です。

昼に暖かな陽射しを浴びた稲が光合成でデンプンをつくり、気温が下がった夜に代謝が抑えられて糖分を溜め込む。このサイクルが、粘りや甘みの強い美味しいお米を作ります。

清流・球磨川から流れてくる綺麗な水だけではなく、盆地の気候も人吉球磨のお米をさらに美味しくする大切な要素だったんですね。

加えて、盆地を囲む険しい山々が自然の防塞として外敵を防いでいたことも、人吉球磨の稲作文化にとっては大きかったんです。

その険しさは凄まじかったようで、かの加藤清正が攻め入った際に「この岩より先は相良にくれる」と言って引き返したという逸話も残っています。

戦国時代には城を落とすため、まず田畑や城下町を荒らすのが定石とされていました。しかし、人吉球磨は外敵に侵略されることが殆どなかったので、その田畑は綺麗なまま代々引き継がれていったのです。

人吉本社

ちなみに、これだけ抱負な水資源と良質な米がありながら、人吉球磨で日本酒が造られなかった理由も盆地が影響しています。

熊本の県南にあたる温暖な人吉球磨では日本酒造りに求められる低温でのきめ細かな温度管理が難しく、逆に焼酎造りに使う黒麹や白麹の管理には人吉球磨の気候と豊かな自然が適していたんですね。

球磨焼酎ミュージアム「白岳伝承蔵」

ここまで、人吉球磨の地理と米焼酎の関係性を見てきました。

次は、この素地を活かして米焼酎をはじめとする豊かな文化を創った人吉球磨の歴史にスポットを当てていきます。

相良700年のマネジメントとは

人吉城跡から見た人吉市内

人吉球磨の米焼酎造りは地理的条件だけで生まれたのではなく、ある領主の優れた治世(ちせい)によって文化として花開きました。

その領主こそ、人吉球磨を700年ものあいだ統治した相良氏です。

桐良梅鉢(さがらうめばち)/相良氏の定紋

相良氏は鎌倉幕府の命により遠江国相良荘(現在の静岡県)からやってきました。現代風にいうと、転勤で地域の管理職に赴任した感じですかね。

当時入り乱れていた豪族を征伐し、新たな領主として人吉球磨の政治や人々をマネジメントする立場となった相良氏は、2つの方向性で悩みます。

自分たち流のやり方で統治するか、それとも地域に合わせるべきか。

この時代、一般的なやり方は前者です。新しい領主はそれまでの文化を破壊し、新たな文化を作り上げるのが普通とされていました。

しかし、ここで相良氏は逆を行きます

もともと地域の人々が大切にしていた文化や信仰を広く認め、その土地に溶け込むアプローチをとったのです。

結果、これが大当たりします。

こうした寛容な政策に感動した民衆と領主が一致団結した人吉球磨は、切り立った山々によって外敵の脅威にされされることもなく、「相良700年」と呼ばれる日本史上稀に見る安定した統治文化の発展を実現しました。

実際、人吉球磨には神社仏閣から遊びまで多くの文化財が今も遺っており、米焼酎もそんな民衆文化の一つなんです。

作家の司馬遼太郎さんも自著「街道をゆく」で、こうした隔離された土地の中で独自の文化が発展した様子を日本の縮図と見立てて、人吉球磨を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と表現しています。

この相良氏の統治と米焼酎が結びついた要因を、少しだけ紹介しましょう。

「球磨の隠し田」を使った産業の開発

相良氏は人吉球磨の地理的特徴をいち早く見抜き、米作りを奨励しました。

そして、この米作りが米焼酎造りにつながった最大の要因が「球磨の隠し田」です。相良氏が治めていた人吉藩は表向きは2万2千石という小藩でしたが、その実質的な石高は10万石を超えていたといわれています。

説明した通り、人吉球磨は周囲を切り立った山々に囲まれた地形。

外部からきた役人も、目に見える範囲の田畑は検分できても、球磨川の奥に隠れる田んぼまでは調べることが出来なかったんですね。

球磨村の棚田

そして、この隠し田で穫れたお米で造られ始めたのが球磨焼酎です。

検分を逃れ、年貢を回避した隠し田の余剰米で新たな産業をつくりだし、他の地域とは違う商品を生み出した独自のビジネスセンス

こうした相良氏のプロデューサーとしての手腕も、米焼酎の産業化に大きく結びついているんです。

外の世界を見据える、商売人の視点

相良氏は人吉にとどまることなく、外の世界にも目を向けた領主でした。

熊本の八代港を起点として琉球王国や東南アジア・大陸とも活発に交易しており、この交易によって蒸留技術が持ちこまれ米焼酎が生まれたといわれています。

球磨焼酎ミュージアム「白岳伝承蔵」

また先述した通り、河川工事にも積極的に取り組み、球磨川を苦労の上に開削して交通と物流の幹線にしました。

球磨川を通じて、地元の産物を外の世界へ。そして戻り船によって外部からの商品が人吉球磨へと運搬されるようになったことで、人吉の流通経済は相良氏の時代に急速に発展したといわれています。

作ったものを外の世界に発信し、経済を回す

相良氏が人吉球磨にもたらしたシンプルな循環に米焼酎があったと想像するだけで、なんとも感慨深い気持ちになりますよね。

自然が造り、人がつないだバトン

球磨焼酎27蔵のボトル

さて、今回は人吉球磨の地理と歴史に触れながら「熊本でなぜ米焼酎が飲まれるようになったのか」を紐解いてきましたが、いかがでしたか。

米焼酎造りに適した自然環境はもちろん、外界から隔たれた人吉球磨を発展させるために、その自然から受けた恩恵を活かそうとする人間の強い想いが米焼酎という文化の根底には流れていたんですね。

自然が造り、人がつないできた米焼酎

この500年引き継がれてきたバトンを次の世代へ渡すためにも、また明日から新たな気持ちで米焼酎と向き合っていきます。

米焼酎が世界中を酔わす、そんな未来を見据えて。